半田駅の跨線橋

▼半田駅(2012年年11月撮影)

東海旅客鉄道(株)(JR東海)武豊線半田駅には、現存するわが国最古の跨線橋があり、産業遺産となっています。わが国最古の跨線橋が、わが国で最初に鉄道の開業した新橋〜横浜間ではなく、また幹線区間でもなく、なぜローカル線の武豊線にあるのでしょうか?
半田駅跨線橋は、わが国で最初に設置された跨線橋ではなく、現存する最古の跨線橋です。したがって、関心事はなぜ半田駅跨線橋が現在まで撤去されずに存続したか、ということになります。
ここで、古い跨線橋が撤去される理由を考えてみれば、(1)輸送人員の増加により、より大型の跨線橋に架け替える必要が生じた、(2)高架化により不要になった、(3)電化により、よりクリアランスの大きな跨線橋に架け替える必要が生じた、等が挙げられます。
武豊線は明治19年に整備され、半田駅も同年開業しました。跨線橋の設置は、やや遅れて明治43年でした。もともと武豊線は沿線地域の輸送需要に応じて整備された路線ではなく、東海道本線の建設資材の輸送のために整備されました。建設資材は武豊港で陸揚げされ、大府駅を経由して東海道本線の建設地点に輸送されました。武豊港は、現在では衣浦港に併合され、プレジャーボートや漁船が停泊するのみですが、明治期には、名古屋港に先立ち、愛知県で最初に整備された国際貿易港でした。このため、鉄道建設資材の多くを英国からの輸入に頼っていた明治初期にあっては、武豊港が資材の陸揚げ拠点となったのは自然なことでしょう。この結果、資材輸送終了後は、線内の輸送需要は多くはなく、武豊線の拠点駅である半田駅であっても、明治〜大正期にはさほど大きな輸送人員の伸びはみられませんでした。
昭和期に入り、昭和3年には半田駅の乗降人員は1日平均1,332人となりましたが、昭和6年に武豊線に並行して知多電気鉄道(現名鉄河和線)が開通すると、乗客は高頻度で所要時間の短い電車に流れ、武豊線の輸送人員は激減し、半田駅の乗降人員も昭和7年には1日平均789人まで減少しました。その後も輸送人員の大きな伸びはみられず、国鉄分割民営化直前の昭和62年度には1日平均874人でした。民営化後は列車増発など利便性改善により増加に転じたものの、近年は1,700人程度で推移しています。結局、知多電気鉄道の整備により、昭和期のほぼ80年間を通して、総じて乗降人員の増加が見られなかったことと、乗降人員が伸びなかったことから、名鉄駅(知多半田)に比べて国鉄(→JR)半田駅周辺の発展が遅れ高架化の必要性も生じなかったこと、さらに、乗降人員の停滞から電化が後回しにされたことが、現在まで明治期の跨線橋が生き残った要因といえるでしょう。
なお、ここへきてようやく武豊線も電化されることとなり、平成27年春完成を目指して工事が進められています。本来であれば本跨線橋は架線を支障するため架け替えが必要ですが、その歴史的価値に鑑み、特例として現状のまま電化が行えるよう工夫されるとのことです。(2014年9月)

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